古い設計室の木の机の上に、白い粘土で作った、丸みのある細長い模型が置かれている。まわりに図面と鉛筆。AIで作った絵で、実物の写真ではない。

HISTORY・・記事内容:約3分

新幹線0系の丸い顔は、海軍の爆撃機を設計した人が形にした。「美しい形は、空気抵抗が少ない」

1964年に走り出した新幹線0系。その丸い顔を決めた研究室の室長は、戦時中に海軍で爆撃機と特攻機を設計した技術者だった。銀座の講演会、粘土の模型、時速256kmまでをたどる。

※生成画像

1964年10月1日。東海道新幹線が走り出した。

最初の「ひかり1号」は、東京から新大阪までを4時間で結んだ。白と青の車体。前に突き出た丸い鼻。0系と呼ばれるあの顔だ。

その顔を決めた研究室(車両構造研究室)の室長は、三木忠直という人だった。戦争中、彼は海軍で飛行機を設計していた。

海軍の技術者だった

三木忠直は東京帝国大学の工学部を出て、海軍の航空技術廠(しょう)に入った技術士官だ。

手がけた代表作は双発の爆撃機「銀河」。急降下での爆撃も水平の爆撃も魚雷の攻撃も、1機でこなす機体だった。

1944年7月。34歳の三木は上官に呼ばれる。「グライダーの爆弾の案を持ってきた者がいる」。

それが人が乗って体当たりする特攻機「桜花」になった。設計したのは三木だ。

東京新聞は三木の手記の一文を紹介している。

本機ヲ使用スル事ハ愚ノ愚デアル

(この機体を使うのは愚かなことの極みだという意味。)

この機体で多くの若者が亡くなった。戦争が終わると三木は国鉄の鉄道技術研究所に移る。飛行機の技術をこんどは列車に使うためだ。

狭い線路で、時速145km

最初に形になったのは小田急の特急「SE車」だった。流線形で重心が低い。三木が設計に関わったこの電車は、1957年、線路の幅が狭い鉄道としては世界でいちばん速い、時速145kmを出した。

銀座の講演会で、「3時間」

同じ1957年の5月30日。銀座の山葉(ヤマハ)ホールで、鉄道技術研究所が創立50周年の講演会を開いた。

題は「東京・大阪間3時間への可能性」。当時の特急は、東京から大阪まで7時間半ほどかかっていた。時速250kmの超特急なら、3時間で行ける。車両の話をしたのは三木だった。

会場には、500人を超える人が集まった。講演は評判になり、国鉄の十河信二総裁は、幹部の前でもう一度同じ話をさせた。そこから新幹線は着工へ動き出す。

粘土で作って、壊して、また作る

先頭の形を決めるとき三木には持論があった。

美しい形状のものは、空気抵抗が少ない

三木は部下に「美しいものをつくれ」と言い、粘土の模型を作っては壊させたという。形の美しさを良い設計の条件にする。海軍のころからの考えだった。

部下の一人、田中眞一さんは講談社の週刊現代の取材に、こう振り返っている。最初に作った鼻の長い模型は、「無駄な空間だ」と言われて直した。試行錯誤の末に、ぽっちゃりとした0系の顔の原型が決まった。

1959年の暮れに実物の10分の1の模型ができる。風を当てて空気の流れを調べる「風洞」の試験には、東京・駒場の航空研究所の設備を借りた。使えるのはお盆と暮れくらい。苦労したという。

国鉄は車両メーカーにも9つの案を出させていた。それでも完成した0系の顔は、三木のチームの案とほとんど変わらなかった。東洋経済の記事はその形が、銀河や桜花の先端に似ていたと書いている。

自分の力は、出し尽くした

1962年4月。新幹線の試験走行が始まる直前に、三木は研究所に辞表を出した。

自分の力は出し尽くした。絶対に自信がある。あとのことは心配ない

その2か月後、神奈川県の鴨宮で試作の電車が走り始める。1963年3月30日の夜、試験の電車は時速256kmを出した。電車の世界最速の記録だった。

開業の日、三木はもう研究所にいなかった。

戦後、三木はキリスト教の信者になった。2005年4月20日、95歳で亡くなっている。

次に、あの顔を見たら

0系はいまは博物館で会える車両になった。丸い鼻を正面から見てみる。

あの形には空を飛ぶための技術と、それを人のために使い直そうとした、戦後の年月が入っている。美しい形は空気抵抗が少ない。三木の持論はそのまま線路の上で答えになった。

出典

情報確認:2026年10月

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