COLUMN・・記事内容:約1分

時間を奪われているのは、どっちなのか

寝ている子どもを抱えて動けない時間を、最初は「奪われている」と感じた。でも本当に時間を奪っているのは何なのか。何もできない時間のことを、少しだけ考えてみました。

朝、ぐずる娘を抱っこして揺れていたら、そのまま腕の中で眠ってしまった。

ソファに腰を下ろす。下ろしたが最後もう動けない。

使えるのは目と耳と左手だけ。テーブルの上のコーヒーは、手を伸ばせば届きそうで届かない距離でゆっくり冷めていく。テレビのリモコンはソファの向こう端にある。

時間を、奪われている

最初に浮かんだのは、正直に言えば「時間を奪われている」という気持ちだった。

返したい連絡がある。片づけたい仕事もある。昨日の夜に見かけて、あとで読もうと思っていた記事もある。せっかくの週末の朝なのに、ここから一歩も動けない。

窓辺のソファの横の小さなテーブルに、コーヒーカップがひとつ。ソファには毛布。朝のやわらかい光。AIで作った絵で、実際の写真ではない。
※生成画像

奪われているのは、どっちなのか

天井を見ながらふと思った。本当に奪われているのはどっちなのか。

娘とのこうした時間は、長い人生の中ではほんの一部だ。この重さで腕の中に収まってくれるのも、たぶんあと少しのあいだだけ。そのうち抱っこなんて嫌がるようになって、ソファで寝落ちすることもなくなる。

一方でテレビもスマホも仕事も、明日もあさってもちゃんとそこにある。いなくなったりはしない。

だとしたら、時間を奪っているのはむしろあっちのほうではないか。

何もできない時間

そう思うと、この何もできない時間が急に貴重に思えてきた。

何も生み出していない。何も片づいていない。ただ重くて温かいものを抱えて、小さな寝息を聞いているだけ。

それなのに、今日いちばんちゃんと使えている時間な気がする。

コーヒーはもうすっかり冷めた。でも、まあいい。

……と、きれいにまとめたいところだけど。

いま、この文章も、寝ている娘を抱えながら、左手でスマホで書いている。

次の一杯