暗い赤い光の酒場のカウンターに、古い金属のマイクと、ウイスキーの小さなグラスが2つ。AIで作った絵で、実際の写真ではない。

CULTURE & HOBBY・・記事内容:約3分

カラオケの最初の機械とされるものを作った人は、特許をとらなかった。神戸のスナックで、ひとりの社長のために録ったテープから

譜面の読めないバンドマンが、神戸のスナックで、歌の苦手な社長のために伴奏をテープに録った。それが、100円で5分の機械「8ジューク」になった。2004年、イグ・ノーベル平和賞。理由は「人のひどい歌を我慢することを教えた」。

※生成画像

二次会、どこ行く?「カラオケ?」。誰かがそう言うと、少しだけ夜が明るくなる。

いまでは世界中に広がったカラオケ。最初の機械を作った人は特許をとらなかった。神戸のスナックで鍵盤を弾いていた、譜面の読めないバンドマンだった。

譜面の読めないドラマー

井上大佑さんは1940年、大阪の十三で生まれた。戦後、一家は神戸へ移った。

本人の話によると、学校のブラスバンドで任されたのは大太鼓ひとつ。大太鼓の音符は少なく、譜面を読めるようにはならなかった。いまでも読めないと井上さんは書いている。曲は全部耳で覚えた。

高校生になるとダンスホールやキャバレーでドラムを叩くようになった。卒業後、証券会社に8か月勤めたが、やめてバンドマンの道へ。9年間各地を回った。

28歳のとき、才能のある人にはかなわないと思い、神戸の実家に戻った。

スナックの「生演奏」

そのころ神戸では、スナックと呼ばれる酒場で、ギターや鍵盤の生演奏に合わせて客が歌うのがはやり始めていた。ドラムの出番はない。井上さんは鍵盤を練習して300曲を弾けるようになった。

ある日、小さな会社の社長が頼みに来た。出張先で取引先と飲みに行くときっと歌わされる。でも、わたしが歌えるのはあんたの伴奏だけなんだ。わたしの声に合わせてくれるから。

井上さんは社長の好きな曲を社長の声に合う高さで弾いてテープに録音して渡した。

数日後、社長は満面の笑みで戻ってきてもっと録ってくれと言った。

その瞬間、思いついた。お金を入れると、マイクとスピーカーから歌いたい曲の伴奏が流れる機械。

100円で5分

井上さん自身は電気が苦手だった。バンド仲間に紹介された電器店の人に頼んで11台を作ってもらった。中身はアンプ、マイク、お金を入れる箱、そして車用の8トラックのテーププレーヤー。名前は「8ジューク」。

1971年、機械は世に出た。

最初、10台を知り合いのスナックに置いてもらった。1週間たっても誰も触っていなかった。そこで知り合いの女性に店を回って歌ってもらった。それをきっかけに機械は動き出した。

100円で5分。1曲はだいたい3分だから2曲目の途中でもう1枚入れることになる。1年ほどで神戸の200軒の店に置かれた。

神戸の店の人が大阪に店を出すとき機械を持っていった。そこから全国へ広がり、作った台数は2万5,000台になった。

特許をとらなかった理由

最初の機械を作ったとき、義理の兄弟から特許をとったらどうかと言われた。

でも井上さんはとらなかった。神戸の店で使ってもらえればそれで十分だと思っていた。それにアンプもマイクもテープの機械もお金の箱も全部ほかの人の特許がある。自分は部品を組み合わせて使い方を考えただけだと。

もし最初の機械に特許があったらカラオケはこんなに広がらなかったと思う。井上さんはそう書いている。

ちなみに「カラオケ」という言葉も井上さんが作ったものではない。オーケストラがいないのに音楽が鳴る「空のオーケストラ」。それを略した言葉で、もっと前からあったという。

我慢する平和

2004年、井上さんのもとにアメリカのハーバード大学からファックスが届いた。

「イグ・ノーベル賞」。人を笑わせ、そして考えさせる研究や発明に贈られる賞だ。井上さんが受けたのは平和賞だった。

理由はこうだ。カラオケはふつうの人のひどい歌を我慢して、それでも楽しむことを教えてくれた。それこそが本当の平和だと。

授賞式のスピーチの最後に、井上さんは英語の歌を歌った。会場は総立ちになったという。

譜面がなくても

井上さんはカラオケの機械をまったく新しく発明したわけではないと話している。カラオケの最初の機械についてはほかにも作った人がいたという研究もある。

それでも神戸のスナックでひとりの社長のために録ったテープから始まったこと。それはたぶん本当だ。

譜面の読めないドラマーが、譜面の読めない誰かのために作った伴奏。今夜もどこかで誰かが少し照れながらマイクを握っている。

出典

情報確認:2026年10月

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